三国志の広田

みなさん、こんにちは。三国志の広田です。
それでは、今回から武将の紹介にいきたいと思います。

初めは魏の郭嘉から紹介しましょう。
個人的には軍師の中で一番好きだったりしますね。

郭嘉(かくか)字は奉孝(ほうこう)。 170年 – 207年

郭嘉は若い頃から将来を見通す洞察力に優れていて、20歳になると名前や経歴を隠して、ひそかに英傑たちと交際を結び、俗世間から離れて暮らしていたと言われています。

この頃は、袁紹と曹操が覇権を競っている時期で、三国(魏、呉、蜀)がまだ立国してない時です。

まず袁紹のもとを訪れたが仕官せずに去っていった。その後、魏を訪れ荀彧(じゅんいく、魏の軍師の一人です)が曹操に郭嘉を推挙した。
このような流れで郭嘉は曹操に仕えるようになりました。

官渡の戦い(200年)のあと、袁尚討伐と烏丸征伐の遠征を計画した時に「兵は神速を貴びます。いま千里先の敵を襲撃するゆえ輜重は多く、有利な地へたどり着くことは困難です。しかも奴らがそれを聞けば、必ずや備えを固めることでしょう。輜重を残し、軽騎兵を(昼夜)兼行させて突出し、彼らの不意を衝くべきです」と献策した。
これは有名な「兵は神速を尊ぶ」という、兵法、戦術ですね。

そして曹操はこの策を採用して烏丸族を討伐することに成功し袁尚らは遼東へ落ちのびていったのです。

郭嘉は物事に深く通じていて、的確な見通しを持っていたので、曹操から「奉孝だけが、わしの真意を理解している」と絶大な信頼を寄せられていたそうです。
そして38歳の時、柳城から帰還の後、病を得てそのまま死去しました。
曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、荀攸(じゅんゆう、魏の軍師の一人で荀彧の甥っ子)らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平のあかつきには、後事を彼に託すつもりだったが……」と嘆いた。
後の赤壁の戦いでも「郭嘉がいれば負けなかった…」と曹操に言わせるくらい優秀な軍師でありました。

有名な話を抜粋して書いてみましたが、どういった人物なのかわかっていただけたでしょうか?

個人的には軍師としては、この時代でトップクラスの腕をもっていたと思います。
かの有名な諸葛亮や司馬懿に勝るとも劣らないと思っています。
ただ諸葛亮や司馬懿には内政を取り仕切る力もあったのでトータルでは二人には敵わないのかなぁとも思います。
ただ「純粋な軍師」として捉えれば贔屓目に見てもトップクラスは間違いないと思います。

といった感じですね。
こうざっくりと書いていると、地名が結構出てくるのですが、知らないとイメージも沸きづらいですよね。
そのうち地図を作成して、載せて分かりやすくしたいなぁと思います。

あと一人の人物を紹介していても、その人を取り巻く周りの人物も出てきて誰?ってのが多いかもしれないですね…
もっと上手くできるよう努力します;

次回は引き続き魏の猛将、張遼(ちょうりょう)を紹介したいと思います。
では、また来週。