金曜です。三国志の広田 

どうも、こんにちは。広田です。

では、今回紹介する武将ですが魏の猛将、張遼 文遠(ちょうりょう ぶんえん)169生-222没です。

丁原(ていげん、同郷の上司的な存在)→呂布(りょふ、三国志史上最強の武将)→曹操(そうそう、最も天下に近い位置にいたと思う)という流れでそれぞれに仕えた武将です。
君主が何度か変わっているのですが裏切りではなく引き抜かれていき、君主が変わったというのが実際の所です。
丁原が死に、呂布へ。呂布が死に、曹操へ。という流れです。
ここの呂布から曹操への流れとかも面白いので、調べてみるのもいいかもしれません。なんといっても最強と謳われた呂布の死亡、武力だけじゃ天下は取れないというお話ですし、呂布の忠臣の陳宮、張遼、高順あたりのエピソードも熱いものを感じます。

脱線しかけたので話を戻しますね。
張遼は非常に忠誠心の強い武将ともありますし、あと個人的な解釈では「最強を求め続けて戦っていた」と考えています。
三国時代最強と謳われた呂布に仕えていて、その武を目の当たりにしてたわけですし、武で生きるものとしたら求めるものは「最強」、武の頂点だったと思います。

広田個人としては曹操に仕えてからのイメージが強く、それ以前の活躍は余り知らないので知っている範囲でお話します。

有名な所でいうと、
・官渡の戦い
当時曹操の客将となっていた関羽(かんう:劉備の義兄弟ですね、美髭公とか言われていました。この時代でヒゲと言ったらこの人です。)と共に先鋒を務め、劉備の元へ帰る関羽を見送りに行ったりと関羽とは敵ながらも親交があった。

・北伐遠征(前回の郭嘉と同行した遠征です)
袁譚・袁尚との戦いで功績を挙げ、黒山賊の孫軽らを降伏させ、江夏の諸県を平定し、烏丸との戦いで功績を挙げ、反乱を起した陳蘭・梅成を斬った。

・合肥の戦い(一番有名な場面はここだと思います)
陳蘭の反乱討伐後、楽進・李典らと共に合肥に駐屯し孫呉の侵攻を迎え撃つ。曹操が張魯率いる五斗米道の侵略の為、漢中へと向かった際、孫権(そんけん:呉の初代皇帝、父は孫堅、兄は孫策。孫家3代と言ったらこの3人です。)は隙を突き合肥へと侵攻してきたが、張遼は楽進・李典と共に曹操が事前に示した策に従い僅かな手勢で討って出、孫権の撃退に成功する。自ら先頭に立ち敵を討つその姿を見て呉軍は恐慌し混乱を起こしたという。

孫権も張遼を恐れ再度の濡須への戦の際に張遼が病を患っていたにも関わらず「油断してはならぬ。」と自軍の将を嗜めた。
しかしこの病が回復せずに亡くなった。

ここで面白い逸話があります。
この合肥の戦いの活躍により張遼の武威は江東に広く響きわたり、張遼が来ると言えば泣く子も黙る程であったといわれてます。
もし、泣いてる子がいたら「遼来来(りょうらいらい)!遼来来!」と言ってあげましょう。
きっと泣き止むことでしょう(笑)

またざっくりと紹介してしまいましたが、張遼は魏の武将の中では一般的にも人気が高い武将なのでちょっと調べれば色々と他の武功なども見られると思いますので気になった方はぜひ調べてみてください。

ちなみに私は「蒼天航路」という漫画を読んで張遼が好きになりました。
それまで魏自体には興味がなかったのですが、「蒼天航路」は魏の曹操が主人公で史実を元にされてます。
それで郭嘉と張遼の活躍を絵で見て好きになりました。

やはり漫画ですと絵からイメージをダイレクトに与えてくれる分、世界観や武将同士の心情も分かり易くていいなぁと思ってしまいます(笑)

今回はこの辺りで終了です。
次回は馬超の紹介にしますかね、1回で話しきれると思いますし。
それでは、またの機会にて。