心のバリア

最近教えていてふと思ったのですが、ロジムの教室は身元の多様性が意外と高いかもしれません。
竹村の教えているクラスの中に典型的な日本人風の容姿や日本風の苗字を持たない子がちらほらいます。
「最近」になるまであまり意識しなかったというのは、(とてもうれしいことに)
授業中そういったことが話題になったことがないからです。

今手元にないためうろ覚えで恐縮なのですが、「五体不満足」の中で乙武洋匡さんが
『子どもの頃には心の中に自分と違う人達(この場合は障害者)に対するバリアなんてないのに、
大人になるまでの体験でそういったものがどんどん作られてしまう。』といった趣旨のことを
書かれていたように記憶します。本当にそのとおりだなあ、と思います。

たとえば竹村の祖母などは普段の磊落さからは信じられないほど無神経に
人種や国籍について語ります。身内のことで恥ずかしくあまり具体的な発言は
引用したくないのですが、例えば、留学先から帰国するときに
「黒いお嫁さんとか連れてこられたらどうしようかと思っちゃった。」
といわれたことがあります。誤解を恐れずにいえば、それでも現在80歳を超える世代の方々の中では
ことさら特殊でもないように思います。もちろん、その世代でそういったことに
関してとても繊細な感覚を持っている方々もたくさんいらっしゃいます。

竹村自身が子どもの頃には、しょっちゅうというほどのこともないのですが、
比較的良く日本風ではない苗字や容姿を持つ子が近くにいました。同じ世代には
他の国々にルーツを持つの方々に対する差別感情などはいまいちピンとこない人
も多いような気がします。(もちろんそうでない人々もたくさん知ってはいるのですが)

それでもロジムの子どもたちを見ていると、自分たちが子どもの頃よりもさらにバリアが少なくなっている
ように(というか、そんなものそもそも全く存在しないように)感じられます。むしろ、
「もともと教室にいたメンバーが、途中から参加してきた子か」「何年生か」「男の子か女の子か」
といったところでできる仲間意識のほうが顕著に出ています。

「最近の子どもは~」から始まる文章は暗い話題に終始することが多い昨今ですが、
少なくともそういった類の心のバリアに関しては、「最近の子どもは~」から先を
ついつい楽観的に語ってしまうこのごろです。