グループ名としての才能

こんばんは。竹村です。

ラッパという名前のラッパはあると思う?

と、ロジカルシンキングで階層構造を扱う授業中に生徒たちに質問することがあります。
なんだかなぞなぞみたいなのですが、答えは「いいえ」です。

ラッパというのは「トランペット」「トロンボーン」「ホルン」「チューバ」といった
金管楽器全体の総称であって、つまりはグループ名だからです。

野菜っていう野菜はあると思う?と聞いたほうが前提知識があるのでフェアなのですが、
ラッパのほうが不思議な感じがして記憶に残りやすいのではないかと考えて
よくラッパを例にします。

ところで話は大きく変わるのですが、才能という名前の才能はあるのでしょうか?

私は、才能というのもやっぱりグループの名前だと考えています。
スポーツ選手ならなら体格が大きいことだったり、逆に小さいことだったり、
俳優なら顔立ちが良いことだったり、逆に個性的なことだったり、
いろんな状況で求められる要素が違ってそれらがまとめて『才能』と呼ばれます。
「自分には才能がないから・・・」あるいは逆に「自分には才能があるから!」と
いう言葉をよく聞くのですが、それはつまり具体的に何がある、またはないと
考えているの、かいまいち釈然としないことが多くあります。

ものごとを考えるときに適切なレベルというのは常に違うと思うのですが、
(例えば「君はビタミン不足に陥りがちな生活をしているからもっと食べ物を食べなさい」や「ここに閉じ込められてもう三日も何も食べていないんだ。なにか野菜をください」がおかしいように)『才能』という言葉は大概抽象的過ぎて意味をなしていないように思います。

特に、勉強の才能と呼ばれるものはもっぱら脳内での活動なので目に見えにくく、
いったいどういう要素が存在しているのか把握することは困難です。

いろいろな方向から客観的に分析してみて、自分にはこういう素質があること(またはないこと)がわかったという場合はもちろん別ですが、むやみに『才能』という言葉を信じるのは危険だと思います。

お化けと一緒で目に見えないものは基本的に信じない、という態度が一番安全なのではないでしょうか?

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