2007年05月24日

2007年夏期講習

2007年 夏期講習受付開始!


http://www.lojim.jp/2007summer/2007summer.html


ロジカルシンキングクラスの夏期集中講座は現在設定検討中です。)



2007年05月19日

生きている学問

苅野です。
私の趣味は、おいしいものを食べること、フットサル、そして理解出来ないにもかかわらず最先端の学問についての論文や本、記事を読むことです。
最初の2つは置いておいて、3つ目。理解できないものが多いのですが、効能があります。それは、「こんなに様々な分野でたくさんの事がわかっていないのならば、自分もなにか未知のものを発見できたりするのではないか。」と勝手に夢想し、やる気が出てくることです。
既に固定化した知識を何年も写経することになれている子供たちにとっても、その学問にまだ確定していない部分、未知な部分があると知ることは、目の前の学問がまた違ったものに見えてくる契機になるのではないでしょうか。また、そのような世界を見せてあげることは我々大人の役目だと思います。
フェルマーの最終定理を解いたワイルズは、10歳の時にこの問題に出会ったそうです。私が10歳の時に出会ったのは、雑誌に載っている既製品のラジコンをどうやって親に買ってもらうかという問題でした。差が歴然ですね・・・。
ちなみに今、勝手に注目している数学者は京大教授の「望月新一」さんです。
http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~motizuki/まず写真から強い天才オーラを感じますね。人の履歴に驚いたり、崇拝することは全くないのですが、この方の履歴には驚きを隠せません。19歳でプリンストン大卒とは、、、。しかもまだ38歳。偉大な目標に向かって進めている研究の途中経過を惜しげもなく逐一公開していることにも恐れ入ります。研究内容についての理解は数%なので、目下この方の論文を少しでも理解して、最先端の数学の世界をのぞき見するというのが目標です。どなたか噛み砕いて説明のできる方がいたら教えてください。



2007年05月14日

渋谷教育学園渋谷中 入試日程に大幅な変更がありました。

難関校の仲間入りといったところでしょうか。今年の大学進学実績の好調さから、一気に波にのろうという感じですね。翌日発表ですから、プランを検討しなおす必要がある方が多いのではないでしょうか。ご注意ください。

平成20年度入学試験日程

中学 一般生
平成20年2月 1日(金) 70名 (国算社理)翌日発表
平成20年2月 2日(土) 70名 (国算社理)翌日発表
平成20年2月 5日(火) 23名 (国算社理)翌日発表
特別入試(2月6日)を廃止
帰国生 平成20年1月27日(日) 12名
高校 募集なし

平成20年度入学試験の変更点

・第3回の試験日を2月3日から 2月5日に変更します。

・特別入試(2月6日)を 廃止します。

・第1回(2月1日) ・第2回(2月2日) ・第3回(2月5日) の合格発表が
試験日の翌日になります。

・第1回(2月1日) ・第2回(2月2日) ・第3回(2月5日) の出願が
1月30日までになります。
※ 第3回(2月5日)は 2月2・3・4日にも受け付けます。

・第1回(2月1日) ・第2回(2月2日) ・第3回(2月5日) の募集人員を
変更します。



人が楽しんでいるものは楽しそうに見えるんです。

私は、都内の大学の半付属の中高一貫高に進学しました。学年担当の先生達が6年間持ち上がりという制度だったので、中高6年間ほとんど同じ先生達から指導を受けました。というわけでまとめて中高編です。

「どうやって算数・数学が得意になったのか?」という質問から始まったお話ですが、私はこの学校で数学だけでなく勉強、さらには字を読むことまで嫌いになりました。坊主憎けれりゃ袈裟までというやつですね。おかげさまで、私はいまだに視力が左右とも2.0です。目の健康を気遣ってくれた、私の中高時代の授業を振り返ってみます。

入学後、私はとんでもないところに来たとショックを受けたことを覚えています。それはみんなが「勉強=すべきもの」「宿題=やるべきもの」「順位=あげるもの」という考えを当たり前のように持ち合わせていたことです。そして、先生もまた同様でした。まあ、一応「進学校」を標榜している学校でしたから、当たり前なのですが、志望動機が「坊主ではない(地元の公立が坊主強制だったので)」「受かりそう」「近い」だった私は全く馴染めませんでした。

「勉強=すべきもの」という前提が成り立っているので、先生達に授業を面白くしようという意識は全くありません。ただでさえ、身近に感じにくく無味乾燥になりがちな中学、高校の数学カリキュラムをひたすら朗読される毎日です。義務を履行する生徒達とそれを監視する先生達。中途半端な自称進学校によくある風景ですね。
当然、落ちこぼれました。300人いましたが下から20番以内を常に確保。高校生になると下から10番以内を確保し続けます。全盛期の高2では下から3番。私より下の2人は学校からいなくなりました。10段階の平均で3ぐらい。通信簿は真っ赤でした。数学は1です。

当時、数学担当の先生と交わした会話です。
「おまえ、やる気ないだろ?」「ないわけじゃないんですが先生の声を聞くと眠くなるんですよ。」「おれも眠いけどがんばってるんだから、おまえもがんばれよ。」
私の数学の先生は、数学の楽しさを教えてくれるのではなくて、数学を通して我慢することを教えてくれていたんですね。ありがた迷惑な話です。

こんな具合ですから、居心地が良いわけがありません。宿題をやらない私にご丁寧に説教までしてくれる同級生まで出る始末でしたので、中3で親に「退学してバスケの強いK高校に行きたい」と申し出ます。バスケットが好きで、これだけは一生懸命にやっていましたので。しかし、私の親は「あんたにいくらかかったと思ってるの!」と保護者が受験生に言ってはいけないNGワードを次々と並べて罵倒して私の心を折ってくれました。

完全な無気力少年となり、成績的にも学校のお荷物状態となった私は、高3の夏に部活を引退した後は、不登校になりました。家を出た後、九段下で途中下車をし、神保町の古本屋街で立ち読みする毎日です。しかしここで、私の人生を変える出会いがありました。靖国通り沿いの古本屋をほぼ制覇した私は、白山通りの古本屋に進出します。その先に、当時も今も無名な小さな塾がありました。立ち読みに飽きてふらふら歩いていると、その塾の前で小学校の塾の同級生に出会いました。立ち話をしていると、その同級生の塾の担任の先生であり、後に私の担任にもなるN先生が通りがかりました。同級生がわたしのことを紹介すると「大学は推薦で行くのか?」と聞いてきました。「いえ、受験です。」「塾は?」「いってません。」「じゃあ、うちに来いよ。」推薦を蹴って国立を受験する優秀な生徒と思ってしまったらしいのですが、とにかく私の通う塾が偶然に決まりました。

塾のクラスではなんと男子は私一人のみ。クラスメイトは、桜蔭と女子学院と雙葉のみ。渡された教科書で理解できるのは数字のみ。申し込みを後悔しつつ、初回の授業に出席しました。やはり全くわからなかったのですが、授業中に先生が話してくれて、今なお覚えている話があります。
「先週勉強していて気づいたことがある。それは・・・・・。これが証明できればおれも有名人だから、しばらくがんばるよ。」
・・・・の説明は理解不能でしたが、おじさんである先生がいまだに勉強していて、証明して有名になるためにしばらくがんばっている。30過ぎのおじさんも、そしてクラスメイトのみんなも面白がっている。その姿を傍目から見ているだけで、その・・・・がなにかとても魅力的なものに思えてきたのです。

すでに捨ててしまっていた教科書を三省堂で買い求める所から私の数学の勉強は再スタートしました。「楽しいものを勉強している」という意識がわからないなりにもあり、マンガを読むように集中しました。自分が楽しんでいる人は、初心者を喜んで受け入れてくれるもので、先生もクラスメイトも競ってわかりやすく、楽しそうにねばり強く説明してくれました。

1教科楽しくなり、得意になるとその手法は応用がきくものですし、「勉強には楽しいものがある。」という意識も芽生えていたので食わず嫌いせず幅広く手をだし、受験に必要な科目をそろえることができたのです。

その後、教える立場になりこの先生と机を並べたことがありました。常々おっしゃっていたのは、「生徒は教師があこがれるものにあこがれる。教師が楽しそうに物事を追いかけていれば、生徒達は後について必死に追いかけてくるものだ。」ということです。

(この話のまとめ)

私は、全く数学を楽しんでいない教師と人並み以上に数学を楽しんでいる教師の両方に教わる機会があり、後者の効能についてとても実感を持つことになりました。
もちろん、中・高生に、「理不尽な社会と会社の規範に従う忍耐力」の土台をつくることは必要だと思いますが、貴重な数学の授業(だけでなく英語、国語、社会、理科)を使う必要はないと思います。私が、数学について現在のレベルにまで至ることができ、そして、数学について人と比べて得意、不得意だということを気にすることなく、現在でも数学について学びたい、知らないことを知りたいと思う気持ちを持ち続けているのは、数学が学ぶに値する楽しいものであるという思いを強く抱くことができたからです。

人が物事を得意になるきっかけには様々なものがあると思います。必要に迫られたからということもあるでしょう。しかし、今回のテーマである算数、数学についていえば、小学生、中・高生が「必要に迫られる」ことはほとんどありません。高いレベルに到達するには、無味乾燥な基本トレーニングも数多く必要です。教える側として意識しなければならないのは、「教える側が楽しんでいないものは、教わる側も楽しめない。」ということです。数学が楽しいものであるという思いを持たせることが大切です。そのためには、教える側が楽しむ姿勢を見せる、(本当に楽しめれば尚よし)ことが最も大切です。もし、大人がしつけの一環として「やるべきこと」として権力をつかってやらせるならば、それは好きになり、得意になることと引き替えであることを覚悟しなければなりません。

「やるべきこと」を決めてもらって、それを遂行することが心地よい人もいるかもしれません。しかし、それではいつまでたっても誰かの追随者にしかなれないでしょう。少なくとも私はそのような安易な追随者と一緒に、自分の好きな算数や数学について話をしたいとは思いません。

どうしたら算数・数学を好きになってもらえるのか?まずは、ご自身で算数・数学の楽しみを見つけ、子供そっちのけで、そして子供の見えるところで楽しんでみてください。親が好きなものに子供は大きく影響されますから。



10分の遅刻はその日の授業を無意味にします。

学校の下校時間によるものであればまだしも、土日の授業などにおいても最近目立ちます。授業の冒頭は、その日に習うことの説明になります。10分の遅刻は10分の損失ではなく、その日の授業のほぼすべてにおいて効果を損ないます。特に5年生までは完全に未習の分野について学ぶことが多いので、冒頭の説明抜きでは、それ以降の演習、解説が全く理解できなくなります。授業にきちんと出席することが最も大切で基本的なことです。授業に出てもらえなければ、指導をすることができません。



2007年04月25日

自分でやって好きになる。

苅野です。
算数、数学の先生をやっていると、保護者の方によく聞かれる質問に「先生はどうやって算数、数学が得意になったのですか」というものがあります。通算100回以上されている質問なのでブログで「苅野の場合」についてお話ししたいと思います。
今回は「小学校編」
正直な話、ロジムの生徒の皆さんほどきちんと勉強した経験は全くありません。小学校時代は地元の塾と四谷大塚に通っていましたが、今のAクラスが定位置。たまにBの下の方に行って戻ってくるという感じです。当時は本当に「予習」シリーズで、家ですべての問題を解いていき、塾ではひたすら解説をしてもらう。という形式でした。半分ぐらいは寝ているか、よそ見をしている生徒でした。
そもそも、興味のないことを1分でも聞かされると眠くなる性格でしたので、1時間以上も解説を聞き続けることなど無理なのです。おかげさまで、「勉強」どころか「いすに座っている」ことすら嫌いになりました。四谷のクラスもAになり、かなり遠くの会場まで足を運んでいました。(当時はクラスが落ちれば校舎もかわっていました。すごい制度ですね。)
で、転機は6年生の夏休みでした。夏休みということで普段と違う先生とクラスでの受講になりました。この先生は、まず問題を配り、解かせて、簡単な解説をした後、なんと3時間自習の時間をとりました。3時間後同じ分野のテストをするから勝手に準備をしろというのです。質問はいつでもどうぞと。面くらいましたが、私の人生でこの時ほど頭がフル回転していたことはないのではないかと思います。基本的な数問しか解説されていませんから、どのような応用問題がありえるのか、基本的な仕組みはなにか。すでにやった問題に重要なヒントはないかなど、ひたすら考えるわけです。そして緊張のテスト。見たことがないのはあたりまえですから、自分が整理した基本概念をひたすら変形させて試すわけです。そして終了。なんと次の日の朝にもまた同じ分野でテストをやるから、がんばってねとのこと。
夏休み3週間、ニュートン算と鶴亀算の2つだけひたすらこのサイクルでした。しかし、「問題から基本原理を探る。」「応用のパターンを自ら検討する。」という作業は翌日のテスト対策ということもあり、ゲーム感覚で毎日集中して楽しめました。この経験以降、イスに座って延々と解説を聞く忍耐力はつきませんでしたが、算数の「基本原理」への探求心と「問題の分析」を楽しむ姿勢は身に付き、今ほど厳しくはない中学入試を乗り切る力はつきました。
私はサッカーが好きですが、この経験を解釈すると、
「サッカーはボールを蹴って初めて楽しくなり、うまくなるもので、名監督の話を何時間も聞かされるだけでは嫌いになるだけで、うまくもならない。」
と思います。
最近は、監督だけでなく保護者の方まで参加してきて、監督と保護者のサッカーをひたすら見ている生徒も見受けられますね。監督の話は不必要ではありませんが、まちがいなくサッカーはプレーするものです。シュートの下手な子に、上手いシュートを見せることも大事ですが、本人に蹴らせることを忘れてはいけません。そして、蹴らないサッカーなどおもしろいはずがありません。算数も然り。
他人の力で得意になったというレベルの解答能力など、好きで自分でやる人間にあっという間に追い抜かれます。急がば回れ。指導する立場としては、目先の点数より、時間をかけてでも本人に良い体験をさせることが重要です。忍耐が必要ですね。しかし、嫌いになったらもう手のほどこしようがありません。
ちなみに上記の先生は、忍耐力のない保護者達の抗議で辞めていきました、、、。
算数の力をつけることのできる先生とは「噛み砕いて解説する力」以前に、「達成感の得られる良い問題と時間を与える力」がある人だと思います。クイズって出来ないから嫌いという人はあまりいませんよね。問題の裏になにかおもしろいトンチや知識などの存在を期待してしまうからだと思います。そして、どきどきしながら考える時間も楽しいことを知っていることもその理由の1つだと思います。
こうして私は、算数がとても好きになり、少しだけ問題も解けるようになり中学生になりました。しかし、その後は暗黒の6年間が続いてしまいました。数学をおもしろいと思っていない人達の数式朗読会に参加させられる日々が始まったのです。(中・高編へつづく。)



2007年04月22日

ロジカルシンキング欠席の際のご連絡にご協力ください

こんにちは。

ロジカルシンキングですが、
ご欠席の際には直前でもかまいませんので、
ご一報いただきたく存じます。

キャンセル待ちしていらっしゃる方が複数いらっしゃいます。
限られた定員でございますので、一人でも多くの方に、
ロジカルシンキングをご体験いただけますようなにとぞご協力
いただきたく存じます。

(事前にご連絡いただけないまま欠席される
回数が多い方は、学期ごとのクラス選択の際に、
希望曜日への抽選参加をご遠慮いただいております。)



2007年04月21日

ロジカルシンキング低学年クラス増設お知らせ

ロジカルシンキング低学年クラスを増設します。

土曜日
14:00 〜 15:30

すでに、土曜午前、日曜のクラスで登録している方の
移動も受付いたします。

登録クラスの移動は、
info2@lojim.jp までご一報ください。

また都度申込に関しては、引き続き、
http://blog.goo.ne.jp/lojim/
にてお申込ください。



2007年04月16日

国が違えば、、

苅野です。今日から新学期です。新しい学校、クラスで新鮮な毎日を送り始めたことと思います。
さて、私はこの春休みに旅行に行ってきました。おみやげ写真です。

珍しいのは、馴染みのないラベルのデザインだけでなく、そこに表記されている単位です。
150cl。センチリットルと読みます。授業をきちんと聞いていてくれた皆さんは、どれくらいの量を表すのか思いついてくれるでしょう。普段皆さんが使っている単位は、大抵2つの部分から成り立っています。「センチ」などの量を表す部分と「リットル」など表すものの性質を表現している部分です。センチは「0.01倍」を意味しています。つまりセンチリットルは0.01リットル、1リットルの100分の1ですね。

キロキロとヘクトデカけたメートルが、デシに追われてセンチミリミリ

この呪文、私は小学校で習いましたが最近の生徒は教わることがないようです。
キロ:1000倍、ヘクト:100倍、デカ:10倍、デシ:0.1倍、センチ:0.01倍、ミリ:0.001倍
と10倍ごとの量を表す部分の覚え方です。
「キロ」メートルは、1メートルの1000倍。「デシ」リットルは1リットルの0.1倍ですね。
センチリットルは、日本では使われていませんが日本以外のアジア諸国、ヨーロッパではよく見かけます。
国が違えば、単位も違う。お金のお話だけではありませんね。



2007年03月10日

新規開講 低学年作文教室 「ほんのよみかた ぶんのかきかた 伝えます」

こんにちは。お知らせです。

多数ご要望いただいておりました低学年向けの記述作文教室を
4月21日より開講します。
(新1年生は夏休みあけからの受付です)

満を持してのおすすめ講座ですので日程ご都合あう方はご検討ください。
詳細はこちら

<講座案内文>
最近の小学生を見ていると、
もっと言うと、中学生から大人まで含めてみても

きちんとした文章が書けない人が多くなっているな

と感じます。

これは、
ひとつには
書き言葉で書かれた本に触れる機会が減ったこと(最近のメディアの多様化により読書の時間が減った)

もうひとつは
小さい頃に、 「きちんとした日本語を使おう」という意識付けがなされていないこと

が原因 です。

また受験勉強が本格化し始める高学年になると、与えられた条件に適合する要素が書いてあるかどうかが最大の評価ポイントとなり、文の形や表現のよしあしを吟味し、修正を加えるのが難しいのが現状です。

先日、6年生が 「もし〜するとき」と書いており、また、それを授業で取り上げても、
多くがおかしいと感じないという現状に講師は青ざめてしまいました。
(「もし」に対応するのは、「なら(ば)」「たら」「とすると」ですね)

と同時に言語感覚の形成に最も強い影響を与える幼少期に、
きちんと お子様の「表現」を「見てあげる」ことの必要性を強く感じました。

「低学年作文教室」はそんな現代の生徒の「表現への感性」「想像力」を 磨くための講座です。

「自分で書く→他人の良いものを見る・意見を聞く→自分 の悪いところを知る→もっといい表現への興味をかきたてる」という流れを通じ て、 生徒自身に言葉の楽しさ・すばらしさと、本を読みいろいろなことを想像し、擬似体験する楽しさ・喜びを伝えていきます。

手遅れになる前に・・・
些末な受験テクニックに溺れる前に・・・